コハタのコトバ

コハタのコトバ

木幡真人の『コハタのコトバ』

近所のお兄ちゃん。

『木幡さんって近所のお兄さんみたいですよね。お兄さんっていうか、お兄ちゃん?』
 
最近、年下の子たちから頻繁にそんなことを言われる。

接してる子たちが自分の妹と同じくらいの年だから、たしかにそうかとは思うけど、去年の自分だったら果たしてそれを受け入れられたんだろうか。
 
 
もっともっと上を目指していた。
高校時代からの虚像というのか、あの人はすごいみたいに見られていたのもあって、仙台・東北でも1番でありたいと思っていた。もっと目立ちたかったし、もっと前を行く大人に追いつきたかった。
 
だから、高校生や大学1・2年生にとってもっと遠い存在、前をいく存在でありたかった。
 
ゼミでリーダーではなく、フォロワーになったのも最初は慣れなくて嫌だった。
自分はこんなところに収まる人間でもないと思っていた。表面上は変わっていても、自分の内側ではまだまだ変われていなかった。
 
 
この1年、そこから変われたのかどうかは本当のところは自分には分からないけど、自分はいわゆる『すごい人』にはなれないんだと思う。遠くに行くのを諦めたわけではないけど、僕自身は遠くにいる憧れる存在ではないんじゃないかなと自分なりに思っている。
 
でもいろいろと踠いてあがいてみて、今は納得している。
 
目立とうと、遠い存在になろうとすればするほど、何かがズレていく気がしたから。
先を行く大人や同世代の存在が気になる、他人が気になって自分は何もできなくなっていく。
 
結局、自分らしくない。
 
 
もともと、僕自身あまり目立つタイプじゃないんだと思う。
小学校、中学校の頃は大人しい人間だったし。カリスマ的な存在なんて、もっと遠い。
 
自分の話をするよりも、人の話を聞いてる方が好きだった。
 
 

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でも、高校時代に一度脚光を浴びたことと、承認欲求の強さが相まって、自分が目立とうとし続けた。
 
目立とうとすればするほどうまくいかない。
滑っているような感じになる。
 
 
正直、プレゼンもあまり得意じゃないし、人前で話すのが苦手。
ガヤ芸人してるくらいがちょうどいい。笑
 
高校時代にともに活躍した人たちや年下の子たちからはだいぶ水をあけられたなあと思う。
でも、いまのところ上手くいってなくて、自分らしくないって思うなら、それは僕の進む道じゃないんだろうし、諦めていいんだと思う。
 
 
前に、糸井重里さんが『ご近所の人気者でありたい』と言っていた。
 
 
 
僕が思ったことや、書いたこととは少し違うんだけど、ああ分かるなあという感じがする。
 
すごい人になるというよりも、何かを成し遂げていくというよりも、
そこに一緒にいる感覚。
 
 
うーん。
3年間費やしても、なんかギラギラして進む学生起業家みたいな感じにはなれなかった。
 
でも、3年間踠いて、あがいた先には、あまり気張らなくていいんだなと思わせてもらえる、いい場所があった。
 
だから、小さく楽しく歩いていこうと思う。
 
どこに行くのかは分からないけど。
 
ここは結構楽しそうだ。

諦めてもいいと思ってたボクを変えてくれた、ある人の言葉

友達がやっている小料理屋に、仕事がひと段落ついて行ってみると、あるおじさんに出会った。
 
 
 
その人は近所に家があり、この店に初めて入ってみたのだという。
僕がそのおじさんと話し始めたときには、すでにかなり酔っていた。
 
おじさんと言っても、出で立ちは長髪のアーティストなのでそれなりに若く見えるのだけど。
 
 
その酔ったおじさんに絡まれるように、ここに来た理由、君は何を大学で学んでいるのか、就職はどうするのかと”取り調べ”を一通り受けた。と言いつつも、僕もこういうのが嫌いではないので、下手なりに喋ってしまう。
 
 
 
 
それにしても、このおじさん一体ナニモノなのだろうか。
喋りながら僕の疑問は膨らんでいく。
 
 
その「取り調べ」を終えると、逆にぼくが仕事は何をしているんですか?と尋ねた。
 
 
その人はどうやら彫刻家をしているらしい。
もっというと、仏師ではないが、仏像を彫っているらしい。
 
 
僕はこんな近くにアーティストとして活動する人間が住んでいるのかと驚いたので、
どうして彫刻家になろうとしたのか聞いてみた。
 
 
すると、そのおじさん曰く「消去法」で彫刻家になったのだという。
僕にはとてもとても消去法でアーティストになったという話の意味がわからなかったけど、
 
そのおじさんは本当に消去法で彫刻家になったらしい。
 
 
 
驚異的すぎる。
 
 
 
酔っ払ったおじさんはぼくにビールをごちそうしてくれて、また語り始めた。
 
 
高校時代、山岳部で活動していたが、
いろいろと大変で面白みを感じず辞めてしまったのだという。当時、高校2年生だったとか。
 
部活を辞めてから、自分は飽き性で今までコロコロやることを変えてきた。
だから、自分が一生続けられることを見つけたいとそのときに思ったのだとか。
 
 
やはり、高校2年生、17歳というのは悩むのだろうか。
 
 
見つけたいと思ったが、自分は知識や情報がないということに気づき、
学ばなければいけないということを感じたのだとか。
 
 
 
それで、予備校でいろんな学部の案内をみては、自分の興味のある分野を探し始めた。
 
当時、理系だったそのおじさんは理学部、工学部の案内をみて、たしかに化学は好きだけど仕事にしたいほどでもないと思ったらしい。かといって、文学部も本を読むのは好きだけど、それを研究したいとも思わず。法学部でもない、体育大学に行ってスポーツ選手になりたいわけでもない、その当時できたばかりの情報〇〇学部やリベラルアーツ的なことをやりたいわけでもない…といろいろ消去法で行き着いた先が美大だったらしい。
 
 
小さい頃にすぐ辞めてしまったけど、絵を描くことは好きだった。
だから、美大ならいいかもしれないと思って、志望した。
 
しかし、デッサンをするために予備校に通い始めて、
デッサンをしてみると、描くものを見ながら描いているのにうまくかけなかったのだとか。
 
 
どうして、物が目の前にあって、それを真似して描いているはずなのに、
うまく描けないのだろうか。
 
 
 
そう疑問を持ったからこそ、そのおじさんは高校生ながらに「これは学ぶ価値がある」と思ったのだとか。
 
 
実は、会話はそこで一度途切れてしまって、というかほぼ閉店の時間になり彫刻家になるまでの話は端折られてしまった。笑
 
 
でも、そうやって一生続けたいと思えるものに出会ったのだという。
 
 
『いいですか。一生続けられる仕事に出会えるかどうかは運です。運ですよ。』
 
そのおじさんは最後にこの言葉を残して帰っていった。
 
 
最初は酔っ払っていたおじさんが言っていた言葉だけど、
妙にその言葉はストレートで重みがあって、自分の心に染み込んできた。
 
 
純粋に自分の想いがどこにあるのか分からなくなってきて、
気持ちのどこかでは『やることなんて2、3年ごとに変わってきたじゃないか。別にどこかで諦めたっていいじゃないか』と言い訳を作っていた自分にストレートに入ってきた。
 
そんな言葉のおかげだと思う。
 
 
 
これまで持ち続けてきたものを手放してもいい。
大事なのは、自分が想いと情熱を傾けられるものだ、と気づけたことが。
 
あの夜、おじさんに出会えてよかった。

1年くらい前から思っていたこと

1年くらい前から思っていたこと。
 
僕はこのままずっと若者を応援する活動を仕事にするんだろうか、それとも全く違うことをやるんだろうか、ということを考えてきた。
 
ここ1年くらい、ずっと想いが乗らない感じが続いていた。
 
思い切ってある人に相談してみたら『飽きたんじゃない?』と言われた。
元々自分が飽き性だとは思うけど、もう興味がなくなったという感覚はあまりない。
 
でも、力が抜けきってる感覚はある。
 
どうして、力が入らないんだろうと思う。
 
他の人に相談してみたら、事業にしようとしていた時は楽しくなかったと言われた。
 
ああ、これかもなあと最近思った。
 
その人も、1年くらい前に無理に事業にしようとしていて頑張っていた時は、とても辛かったと話していた。月一で作っていた場の、その日がやってくるのが憂鬱だったという。やらなきゃいけないに変わっていた。
 
でも、事業にしようとせずに、小さくやり始めてからは楽しくなったらしい。
 
そういえば、僕もそうだった。
 
法人を立ち上げてから、事業にしなければいけない、収入を得なければいけないと思って結局何もできなくなった。シンプルにイベントとして、月2でやっていた頃よりもできなくなった。求めていることが高すぎて、結局一歩も踏み出せなくなった。
 
そうして、力が抜けきった感覚はある。
 
そもそも、向かう方向が間違っていたと思う。
 
もっともっと、高校生や大学生と話したり、相談に乗っていれば、作り続けられた気はする。
 
でも、お金を得なければいけないと思って協賛企業を探したり、クラウドファンディングを打ってみたり、本来向かうべきところではないところに時間を割いて精神的な体力が衰弱していった感じはする。
 
だから、想いがすり減っていたのかもしれない。
 
もっともっと近くにやるべきことはあるのに。
 
イベント自体も、イベントにすることもなかったなと今更だけど思っている。
僕は、そこそこ経験があって一通りできるゆえの落とし穴にはまっていた。
ちゃんとイベントにしなければいけない、司会をやって場を回さなければいけない、ゲストにちゃんとした企画書をださなきゃいけない…。
 
見栄えの問題を気にして、下手に労力を割いていた感じがある。
 
本番ではなくて、準備で気疲れしていた。
 
しばらく小さな場をつくって、また高校生や大学生と話していかないと、自分が本当にやりたいことなのかどうかは分からないような気はする。
 
でも、気がつくことができて、少し楽になった。

ラジオに出会って見える景色が変わった

1年間回してきたものが終わった。


うちの研究室が毎週1回、コミュニティFMで流している番組の現・4年生担当期間ではラストの収録がきょうあった。


そっか、1年経ったのか。
大きい感動を感じるわけでもないけど、ふと気づけば終わるのかというストンとした感覚があった。

別に、放送局でやっているようなラジオのクオリティでもないし、特に大げさな企画をして放送するわけでもない。ゼミの時に集まって、テーマを決めてゼミの活動や、まちづくりの情報、みんなの近況とかをボイスレコーダーの前で10分楽しく話す。そうやって、50回くらいやっていたら1年が過ぎていた。


僕はただ話すだけだったし、30分番組のうち前半の先生が話すコーナーの収録に毎週研究室に行っただけだから、テーマを決めたり編集することの大変さはあまり分からない。でも、なんだか1年間ゆるくやったなりに楽しかったなというのを感じた。


最初は、同じゼミにならなかったら大して仲良くもならなかったであろうメンバーが、毎週毎週10分話すことで、その人たちの性格や趣味が見えていく。何を話したらいいのやらという感じだったところから、徐々に話すことの楽しさを見出していった。


思えば、僕はラジオに出会って見える景色が変わった気がする。


中学1年のときに聴いたラジオ番組に元気づけられて、アナウンサーになることを夢見た。
翌年には、偶然アナウンサーになりたいということを番組に書いて送ったら、ラジオに出させてもらえた。喋ることで自信を覚えた瞬間だった。

アナウンサーになることを夢見たから、高校3年生で「くじらステーション」を立ち上げた。
正確にいえば、ラジオというよりはテレビに近いんだけど、
Ustreamというサービスを使って月に2回、1時間ずつ企画して、番組構成を考えて、高校生たちが喋る。雰囲気はラジオに近かった。


高校3年生になって活動を始めてからは、取材や番組出演の依頼をいただいて、出演することも多くなった。


東京のキー局のラジオ、仙台のラジオ番組…ありがたいことにいろいろ出させてもらったけど、一番嬉しかったのは2013年にくじらステーションを立ち上げた頃、TBC東北放送の番組にスタジオで出演させてもらったことだ。


アナウンサーになると決めたのは、東北放送の番組を聴いたことがきっかけだったから。
いつも聴いていた、あっち側に自分がいる。スタジオに入るとき、プロ野球選手がブルペンからマウンドに向かうような緊張感とワクワク感を覚えた。

そして、知っているアナウンサーと一緒に番組に出ている。
不思議な感覚だった。

結局、アナウンサーになることよりも、自分でまちづくりに関わることが楽しくなってしまったのだけど、それでもあの頃の思いは忘れていない。人を伝えたい、地域で頑張っている人を伝えて、一人でも多くのひとに「自分もがんばろう。こんな人になりたい。」と思ってほしい。そんなきっかけを作れたら。それを伝えられる近い場所にいたい。


それが伝えられると思ったのが、これからはネットであり、リアルの場づくりだと思った。
だから、僕はいま『ジブンゴトLab.』をやっているし、プログラム+フリーペーパー製作をしたいと思っている。


1年後、紙を手に取るひとが変わるきっかけになったら。


僕が、ラジオに出会ってこうなりたいと憧れたように。

ぼくのマイプロ・中学編

思い返してみると、中学、高校、大学で一つずつ形を残してきてる。

 

僕が初めて自主的にチームを組んで『創る』ということに挑んだのは中学2年生、2009年。もう8年も前のことだ。

 

 

中学1年生、木幡少年はアナウンサーになることを夢見た。

中学校に入ってすぐ野球部に入ったが、周りの環境とソリが合わず夏休みで辞めてしまう。辞めるまでの悩んでいた時期、部活に行くのが嫌すぎて1ヶ月ほど不登校になっていた。

 

しかし、引きこもっていたある日、国語の先生が僕の家を訪ねてきたのだ。

だいたいその先生と話し込んだあたりから、僕の人生が一言では語れないものになってくる。小説の序章にある、あやしい人との出会いみたいなあれである。あれによって、木幡少年のその先はご存知の通りズブズブである。

 

『野球部を辞めたいなら、うちにこないか。』

あのおばちゃんは、一体なぜぼくに声をかけたのだろうか。ただ単に、運動部に合わない人間だから誘っただけなのだろうか。でも、9年前のあの日ぼくにかけてくれた言葉はそれだけではなかった。

 

あの友達は町内の神社や仏閣を周って歴史の研究をしている、あの人はカメラでいろんなものを撮っている…と細かに説明してくれた。まず、これを手伝ってみたら?と誘ってもらった。

 

とはいえ、あの人は僕の何をみてそんなに説明してくれたのだろう。

あの頃はまだそんなに親しい先生でもなかったし、課題もちゃんと出している人間でもなかった。でも、僕の何かをみて話してくれた。

 

そうして、先生に助けられ次の身の置き所が決まった。それが、のちに僕が初めて何かを創ることに挑戦することになる総合文化部という名前の半分帰宅部みたいなところだった。

 

というのも、もともと何個かの部活が統合されてできたのだと思う。だから、半数くらいの人は何かしら自分たちのやりたいことを曲りなりにもやっていた。一方で、それ以外の人は部活に籍は入れているけど帰宅部同然の人もいたし、中には学校にはないスポーツを外部でやるために籍だけ置いとくという人もいた。

 

 

はっきり言えば、何もやらなくてもいい部活で、なぜか僕は「すること」を選んでしまった。真面目に何かをやっていた側の人たちと元から親しかったということもあったけど、暇していても手持ち無沙汰なのが気持ち悪くて、その人たちの手伝いをできるところから始めた。

 

 

そうして、休みの日にインタビューに行くのについていったり、撮影についていく日が始まり、元から仲が良かったその人たちと一緒に行動する日々になった。その中で、話題になっていたのが『ラジオ』だった。

 

まあマニアックな話題だなあとは思うし、実際マニアックな人々の集まりではあったんだけど、なぜかいつもその話題だった。

 

僕たちは地元の放送局のあるラジオ番組を聞いては、いつもその話をした。その番組に出ているアナウンサーの話をした。ああだった、こうだったと感想を語り合った。

 

 

今、当時を振り返ってみると他の人たちの見方と、僕の見方は少し違ったかもしれない。彼らの視点はある種マニアとしての視点だった、でも僕の視点はその時期から憧れになった。

 

その番組を聴いてアナウンサーになりたいと思うようになった。この音の先にいる人たちと一緒に働きたいと思うようになった。遠くない未来、聴いてもらえる人になりたいと思うようになった。

 

 

そのときの僕にあまり深い理由はなかった。でも、ひとつだけ思うのは、部活を辞めていろいろと疎外感を感じたり、新しい環境になって確立されたポジションがない不安の中で見た楽しさや輝いている人がその番組に出ていたアナウンサーの人たちだったんだと思う。

 

だからこそ、こうなりたいと思った。自分も何かを伝える人間になりたい、発信する人間になりたいと思うようになった。

 

そこから1年、僕はフラフラしていた

まあ、何かしらはやっていたし、真面目に部活に顔を出してはいたけど、自分の島を持てずにかといって誰かに真剣について行くでもなしに過ごした。

 

本音を言えば、カメラをやりたかった。一眼レフカメラを買って、写真を撮りたかった。でも、その時の自分にはお金がなかったし、親に言っても買ってはもらえなかった。だから、写真をやっていた人たちほどにはなれなかった。

 

かといって、他の活動についていくほどの興味もなかった。

 

だから、フラフラしていた。

 

 

そんな中学生活も折り返しに入ったある日、先生とこれからどうしたいのか、夢はなんなのかということを真剣に話した。アナウンサーになりたいということを話した。

 

すると、先生はこう僕に言った。

「木幡はジャーナリストになるタイプだよ。だから、新聞をつくろう。」

 

 

今までの自分にない視点だった。

自分はカメラをやりたいと思っていたし、アナウンサーになるためにここで何ができるとも思っていなかった。第一、校内新聞はオフィシャルな委員会が他にあったし、学級通信だって先生たちが出している。

 

「なのに自分が新聞づくり?」

 

というのが、正直な気持ちだった。

 

今思うと、よく社会のことを友達と話していた自分のことを先生は見ていてくれたのかもしれない。もしかしたら、周りとは違う何かを見つけてくれたのかもしれない。

 

そして、何も持っていない自分にとって、何かに打ち込むというのは望んでいたことだったので始めることにした。気づけば自分が編集長として、始めていた。

 

 

それから、いろんな知らないことの繰り返しが始まる。

すべてが初めての経験だった…

 

 

というその経験については次回話しまする。

 

 

今までここらへんの話は自分の実績や自己紹介にも載せていないし、ブログで書いても高校時代のイメージに隠れてあまり他人には伝わっていないこと。でも、自分にとっては震災後のアクションにも繋がっているし、自分が『頑張れば、目標を達成できる』と自信がついた頃でもあった。

 

実際、大きかったと思うのは先生の言葉だった。

自分にはない視点で、かつ挑戦を後押ししてくれた。

 

 

その成功体験が、いま自分が大学生・高校生の想いを応援する理由に繋がっている。

 

 

【お知らせ】

 
7月から仙台で何かやってみたい!と思っている大学生・高校生を対象にアクションを起こすための講座『ジブンゴトLab.』を開催していくために、クラウドファンディングを実施中です。
 
このプロジェクトは、ぼくが大学に入ってから想いは持っているけどなかなかアクションを起こせない友達や後輩と話していて、アクションを起こしたらもっと面白くなる!応援したい!という想いから企画をスタート。
 
現在、プログラムを開催するために必要な会場費用や物品費用、合宿経費、今後の活動費などなど合計で100万円のご支援をお願いしています。
 

また、このプログラムでは、より多くの仙台で暮らす大学生や高校生に『自分たちもアクションを起こしたい!』という思いを持ってもらいたいという想いから、終了後に参加するひとたちを取材して記事にまとめたフリーペーパーを製作し、仙台市内の大学や高校を中心に配布する予定。

 

ぼく自身も、ブログに書いてきたように中学、高校、大学のときのそれぞれのフェーズで多くの大人や先輩たちに応援してもらって、想いをアクションにすることができました。

 

共感していただけたら、ジブンゴトLab.へご支援をしていただけると嬉しいです。

 

readyfor.jp

それって、努力をして好きを勝ち取ったのか?

最近、思うところがあり整理のために書きます。

 

1月に、こんな記事を書きました。自分には物欲がなくて、正直ゆっくり好きなことをやって暮らせたらそれでいいやって、周りの人たちと楽しく過ごせたらそれでいいんだって。

kohatanokotoba.hatenablog.com

 

でも、やっぱりそのスタンス嫌だなあって最近思い始めていて。

 

表面上はいいんだと思うんですよ。好きなことをしたり、マイペースに過ごすとか、尖っているより丸くみたいなところは僕は好き。

 

でも、結局それって表面上でしかなくって。逆にこの文章を書く自分って泥臭さがないし、高校生の頃に持っていたギラギラ感というか頂点狙ってやる!みたいな強い気持ちが足りないなって思う。頑張って、自分のやりたいことやったる!みたいな頑張って1位を狙おうとする気持ちじゃなくて、疲れたから集団から離れてもいいやーみたいなそういう粘りのない、ある意味達観しているような文章だなって今になって思う自分がいて。

 

ある時、いまって仙台で目立ってる学生とか、天下とってやるわぁああみたいな学生がいないよねって言われて会話していた中で、別に僕はいいんです狙ってないしって返した。僕はそういう目立つとかそういうところじゃなくて、好きなことやって生きれたらそれでいいんですと伝えた。

 

実際「スゴい」よりも「可愛らしさ」みたいな部分を僕は重要視している。

ある意味では、高校生のときに「スゴい」を狙いすぎて失敗したことの反省に基づいている。

 

でも、でもだ。

 

今の自分って、何かをナメていないかと思っていて。

どんな言葉だったかは忘れたけど、前にほぼ日の糸井重里さんが、ほぼ日は楽しくやっっているというよりも「楽しそう」にやっているという話を思い出した。どんなに楽しいことでも、それは怠惰な楽だったり楽しいの上に成り立っている丸さではなくて、日々の努力の上に成り立っている「楽しさ」というものであって。

 

今の自分の「好きなことできればいいっすよ」っていう言葉は、マラソンで息ゼーゼー吐きながら走るのがかっこ悪いから走らないみたいなことを言っている中学生と大差ないやんと思ってしまう。

 

それって、努力をしてその好きを勝ち取ったのか?

 

だから、ワクワクしてる?って聞かれても、堂々とワクワクしてるって言えなくて。別に「スゴく」なる必要はないけど、僕が高校生の頃のギラギラ感というのはもっともっと持っていてもいいよなって思う。

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あの頃の自分は少々行き過ぎてはいたけど「自分たちすげえ!」みたいな絶対的な自信を持っていたし、自分たちが社会変えてやる!みたいな気持ちを持っていた。もちろん、スゴくはないし社会変えてる自分たち!みたいなことを表沙汰に言わなくてもいいんだけど、情熱大陸出てやるよ!くらいの夢を語って行動していくギラギラ感くらいはあったほうがいいんじゃないかとこの頃思っている。

 

それこそ、箱根駅伝3連覇を果たした青山学院大学のメンバーだって、俳優・歌手・文筆家の幅広い活躍をしている星野源だって、楽しさとかワクワクを追求している人たちほど自分の目標にたどり着くまでめちゃくちゃ努力をしている。

 

キャラとしての可愛さみたいな部分はあったほうが良いんだと思う。

でも、努力に対する姿勢さえもフワフワしたものになったら、それは自分を甘やかしてるだけ。だから、つまらない人間になっていく。

 

 

余計に、人を応援する、少し下の世代を引っ張っていく役目の人間をやるということは、大きく捉え過ぎかもしれないけど、憧れられるということでもある。そんな人間が、(仙台で一番の学生になるかどうかは別にして)あはは〜いいっすよ〜なんて言ってる場合なんだろうか。

 

競争ではないし、ランキングがあるわけでもないし、そこが本質ではないので、仙台で一番の学生になりたいわけではないですが、とにかくなってやるくらいの勢いと努力がないと、好きなことを仕事にはできないし、ましてや人を引っ張っていくパワーなんてないんじゃないかと思い直した。

 

怠惰な余裕ではなく、努力の先に見せる余裕でありたい。

 

4年前のことを思い出して、今の自分の停滞感からそんなことを思った最近。

キミはこれからどう生きていくの?

大学4年になって、9月がくれば22歳になる。高校生の頃に言っていた意識高いこうなりたいだけでは、ワケが違ってくる歳だと切実なことを思っていて。

 

あと1年もすれば、周りの友達はどこかの会社に入って働くようになる。正確にいえば、ぼくだって何らかの生きていく術を持つ必要がある。

 

その野に放たれる感覚を持ちながら、自分が好きなことだけをやるというのはやっぱり大きい不安が自分の中にあって。でも、不安に思っているだけじゃ何も始まらないからこうやって言葉に変えようと思ってキーボードを叩いている。

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