コハタのコトバ

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コハタのコトバ

木幡真人の『コハタのコトバ』

「結婚して別居する」ぼくの相方・山本との働き方。

2014年12月22日の夜。クリスマスも迫ってるというのに、木幡真人と山本憲弘は男ふたりで東北大学の学食にいた。

 

これから1年間、激動と混沌の時を過ごすとは知らずに、僕たちは希望を語り続けた。ここから話す物語は、そんな何も知らなかった19歳の大学生ふたりが1年間で見える景色が変わっていく物語である。

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高校時代、石巻で高校生団体を立ち上げ活動をして、それなりに実績やメディア露出をしてきた。しかし、宮城大学に入学してから悩みながら高校生を応援したいと思っていた木幡。

 

東北の復興の過程を学びたい。熱いヤツらを見てみたい。そう志し、大阪から東北大学に入学し、福島でアクションを起こそうとしていた山本。

 

このふたりはこの2ヶ月半前にある飲み会で出会い、そのときに大学1年生で同い年がこのふたりだったこと、語った熱い想いが同じだったことから頻繁に話すようになっていた。時期を同じくして、僕たちにとっては大きな話が巻い込む。

 

『AO義塾仙台キャンプ開校』

 

当時、ふろぷろで一緒に動いていた嶺井さんが慶應大を中心に合格者を輩出していたAO入試専門塾のAO義塾に参画したのをきっかけに、この話が生まれ仙台キャンプ(分校)の代表、コアメンバーとして白羽の矢が立ったのが木幡と山本だった。

 

最初は代表として僕がいいのではないか。という声が他の人たちの想いだったが、僕は断った。僕が関わるビジョンが見えなかったからだ。

 

では年末の、12月22日。僕が代表として始めると言ったのはなぜなのか。当時のブログにはこう書いてある。

「自信を持ってAO義塾でスタッフやりますって言えないんだよねー。真剣にやりたいことなのに」と僕が言うと彼も「分かるわー笑」と返してきました。

本音を出し続けたところ「立ち上げる感じがしない」というものでした。

僕たちは0から自分たちで作っていくけど、どこかで自分たちの意見を伝えきれていないところがありました。

僕と山本に共通していた考えは「自分一人がトップに立つのは何か違う」というもの。

そこがジブンゴトに落とし込めていないというか、腑に落ちない理由でした。

 出典:https://cfstart.wordpress.com/2014/12/23/aogijuku_sendai/

 

その議論から僕たちがつくりたい東北のコミュニティまで語ったのち「共同代表でやろう」という話が出ます。このときの決断がのちの僕たちにとって良いものか。それとも悪いものなのかは、後回しにします。とにかく、この文章のあとには「攻めの共同代表制」というを僕は掲げているので、気持ちが後ろむきになっていたというよりも前向きになっていたということは確かです。

 

2014年12月27日。共同代表・木幡真人と山本憲弘の二枚看板でAO義塾仙台キャンプはスタートします。0から立ち上げていくという感覚、家具のひとつひとつまで僕たちが作っていくというワクワク感が確かにあった。

 

1月、2月…。

 

授業を東京のスタッフがやるのか、それとも仙台のスタッフがやるのか。どうやってコンテンツを作っていくのか。家具はいついれるのか。一つ一つが見切り発車すぎた。それは今振り返ると、本質的に準備期間が短かったことが問題なのではなくて、一人もジブンゴトとしてプレーしていこうとする人がいなかったからではないだろうか。そういう議論がなかったことが『見切り発車』と言える。

 

年度が変わって、4月。そこからが現実味を帯びて混沌としていた。

 

一見、『現実』と『混沌』このワードは反する二つかもしれない。そして、その前の混沌はなんだったんだという話。

 

3月までは他人事で混沌としていられた。正確にいうと、本当はしていられる場合ではなかったのだけど、自分たちで甘くなっていた。授業コンテンツをどうするも、経営面も「どうするよ。」って言いつつ5割くらいは他者に依存できた。

 

4月からは塾生として入ってきた子たちも3年生になる。コンテンツはどう作っていくのか。新規の塾生も増やさないと損益分岐点に達しない、この時期までに何人いないと合格を担保できないだろうという話が現実味を帯び始めて議論のテーブルに乗ってきた。

 

元から「AO入試対策がしたくてジョインしたわけじゃない。」と言っていた僕は3月からおしゃべりカフェを始めたり、広報・営業まわりのタスクを担った。

 

ここら辺が東北ソーシャルアクションエンジンを立ち上げる際に書いたブログで「嫌だった。」という話の中身なんですが、今思えば「嫌」というよりもジブンゴトにできていない話だったから話が自分にとって大きすぎてあるいは、見えないものすぎてぽいっと投げ出していたのかもしれません。

AO義塾に入塾する人の導線のひき方とか塾生の実績作りの話とか、もうええわ!!!!!と言いたくなること

出展:http://kohatanokotoba.hatenablog.com/entry/2015/09/19/193231

 

5月以降は、混沌を過ぎて「依存」の連続だった。営業も多くの学校に資料を送って、電話をしたり、営業に行ったり、帰ってきては授業をしたり。その合間で大学に行ったり。

 

でも、体当たりできるほどの覚悟はなかった。だから、僕は山本に対して「できないから」って依存をした。甘えた。仕事を自分からやっていくという姿勢はなかったと思う。

 

他に頼れる人もいなかったからこそ。

 

生活習慣も崩れていったし、やりたいことも見えなくなった。6月、7月に入ってもっとだった。

 

チラシ配りをしようと言って、イラレでデザインをして発注したはいいものの大量に余った。朝早くに学校に行ってチラシ配りを何度かやったが、他はほとんど二人とも寝坊したりしてやれなかった。当然、ズルズルとしていた。怒られもした。共依存とも言うのだろうか。

 

8月。僕は、致命的だったと思う。慶応大のAO入試出願前日に添付資料のデザインチェックをしていたのだが、提出ギリギリの子たちの分を見れなかった。大学のテストを優先したいといって。これ自体は決して悪いことではないが、事前に他の担当できる人に頼むという行為を怠った。ジブンゴトで動いていなかった。

 

僕は辛いとき、動けないときほど山本が彼女状態(ちょっとマズいですね…笑)だったし、自分で自分をコントロールするというのを失っていた。

 

夏休みを越して、木幡と山本は一般社団法人東北ソーシャルアクションエンジンを立ち上げた。社会一般的に言えば、起業したということになるのか…(まだまだだけど)。僕はAO義塾を抜け、この活動に専念し高校生のアクションのきっかけづくりをしている。山本はAO義塾を続けながら、東北ソーシャルアクションエンジンの理事として参画し、福島県広野町でも活動を続け、さらには東北若者10000人会議というカンファンレンスのコアメンバーもやるというマルチな活躍をしている。

 

10月から12月前半までかけて、僕たちは少し迷った。それは、自分たちの今後をどうするかもだし、日々の暮らしも。

(まだ若干、『日々の暮らし』は迷っているかもしれない笑)

 

試行錯誤をお互い重ねた。その中で見えてきたものがある。僕たちは「週1」で会うのがいいのかも。と。

 

山本は福島県広野町で行っている活動と、東北10000人会議のコアメンバーとしてだいたい日々のほとんどを使っている。彼の冷静な視線とリードが光っている。

 

僕は東北ソーシャルアクションエンジンの活動を進めていくために、まだまだこれからだけどいろんな人に会って話している。そして、本当に信頼できる人たちと話してギアチェンジできた気がする。高校生ともコミュニケーションをとっている。そして、ランナーとしても日々走っている。山本とは反対で、情熱的に暑苦しく。

 

僕と山本は夏、悪い状況ほど一緒に過ごしていた。

 

彼は秋に二つ僕の前で印象に残る言葉を残していた。

 

『0.1×0.1=0.01ですよね。だから、まずは1になりたい。』

僕らは0.1と0.1なのに、辛いときに一緒にいることで0.01にしてしまっていたのかもしれない。

 

そして、もう一言。

 

結婚して別居したんですよ。

 

いや、語弊ありありなんで辞めてください。って感じなんですが、こんなことを言っていました。あの、一応僕彼女いませんが、女の子が好きですからね。疑わないでくださいね。汗

 

でも、この言葉は的を得ていて。木幡と山本はこの1年を通して、仕事において(ここ重要)付き合っていたところから結婚したステージまで来たと思う。

 

でも、会うのは1週間に1回。それ以外は、電話とメッセンジャーで済ましている。では、1週間に1度会って何をするのか。

 

ミーティングをして、お互いの近況報告、プロジェクトの進捗確認、リセットをしている。陸上競技で言ったら、マラソンを走っていてラップタイムを計り1km毎にリセットする感覚。

 

僕たちは去年の今日から一緒に活動してきて、見える景色が確実に変わってきた。

 

僕は確実に日々伝える言葉がジブンゴトになっていると思う。大きな言葉は出せないけど、小さなジブンゴトにできる言葉を発していく。

 

箱根駅伝を舞台にした映画「風が強く吹いている」で箱根駅伝に出ようと言い出した清瀬灰二はこんなことを言っている。

 

思うように走れなくなって初めて無性に知りたくなったんだ。走るってどういうことなのか。俺は証明したかったんだ。弱小部でも、例え素人でも自分の力を引き出す情熱があれば走ることはできるんだって。(「風が強く吹いている」より)

 

僕がやっていることはこういうことだと思う。たとえ、高校生でもエリートじゃなくても、自分にとっての情熱や火が灯れば動き出すことができるんだっていうことを伝えたい。

 

山本も大学を休学しながら、活動を続け確実に今を生きている。

 

最後にこの1年一緒に山本憲弘と仕事をしてきて感じたことをふたつ。

 

失敗してもいい。けど、それジブンゴト?というのを常に問うていきたい。

 

 

この1年がなかったら、何にも出会えなかった。責任が取れない苦い思いもした。こればかりは相対してきた人たちに申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも、今年があったからこそ僕たちはまた前に進めると思うし、これからも走り続けていこうと思います。

 

今年もあと少し。でも、僕にとってはもう始まりです。また、走り出していきます。