コハタのコトバ

コハタのコトバ

木幡真人の『コハタのコトバ』

本気で走りたいと願っている人間はいた

久々にこのブログに戻ってきた。

 

やはり、陸上競技という自分の身体の限界と向き合う競技をしてなお、自分は言葉を綴ることに戻ってくるのだということを感じた。

 

別に立ち上げたブログ「こはた陸上復帰プロジェクト」では主に練習日誌やレース記録として綴っていこうと思っていた…が、実際には記録はツイッターやインスタグラムで事足りてしまう。

 

そうなると、結局のところは自分が日々走ることで感じる世界について言葉を綴りたくなる。

 

また、あっちのブログに書いている間に僕は「駅伝部をつくって全日本大学駅伝に出る。」という目標を立ててアクションを起こした。今は駅伝部をつくるためにメンバー集めをしているところだ。

 

 

そんなことをやってみて感じるのは結局この4年間やってきた<マイプロジェクト>なるものと一緒で、自分の中から沸いてくる想い、感情を言葉にして、それが行動に昇華されていくというプロセスの繰り返しなのだ。

 

スポーツという今までやってきたこととは正反対の世界に身を投じたはずなのに、結局ぼくは言葉を考える世界に還ってくる。

 

でも、よくよく考えてみると当たり前なのかもしれない。

 

ある小説で「強さ」とは「言葉」だ、という文章を読んだ。

 

 

走っていて苦しい時に、僕たちは「どうして走ってるのだろう?」という疑問に苛まれる。

 

そこで答えが生まれてこないと諦めてしまうか、その苦しみに耐え続けて身体を動かすしかない。

 

しかし、その問いに対して自分なりの走る理由や目的、理想の姿を見いだせれば、もっと頑張れそうな気がしてくる。ちょっとだけ強くなれる気がする。

 

ある長距離ランナーのブログに「身体は想いの『乗り物』だ。」という言葉が載っていた。

 

つまり、陸上競技というのは身体を動かすだけのシンプルな競技と思われがちだが、特に長距離の場合は苦しさが伴うだけに自分の思考や感情、気持ちと常に知的格闘を繰り返す作業の上に成り立っている競技なのかもしれない。

 

 

 

ぼくが高校の頃は、怪我をした後走ることが嫌いになりかけた。先生に毎日メニューを指示されて走ることにも少しばかり疑問を感じていた。

 

高校生の自分はそんなもんだと思っていたけど、あれから4年ものあいだソーシャルや教育界隈のコミュニティに身を置くと、やはりそんなもんではないと思う。

 

あの頃は弱かった。自分で自分に答えを出せなかったから。苦しみを楽しさに変えることはできなかった。

 

でも、今は少しだけ強くなれた気がする。たとえ苦しい局面でも、自分が自分に対して答えを出すことができているから。だから毎日ゼーハーゼーハー言っても走ることが楽しい。

 

 

ぼくは駅伝部をつくろうと決めたのは『好きなことをやって、どこまでいけるのだろうか。何を見ることができるのだろうか。』という好奇心から始まった。

 

そこには、自分が今まで挑戦してもできっこないと思い込んできたことへのリベンジが含まれていた。

 

それと同時に、同じ大学に身を置いていて同じようなことを想い続けている人間はいると思った。

 

陸上部のないこの大学で、本気で走ることに向き合いたいと願っている人間はいるのではないだろうか。

 

そう仮説を立てた。

 

 

環境に慣れるのではなく、環境を一緒に創り上げていくプロセスを同じ想いを持った人間と経験してみたい。

 

 

 

それから一ヶ月。

 

やはり、そんな想いを持っている人間は現れた。

 

絵に描いたように、自分が思っていた人間だった。彼は高校時代に800m2分フラットの実績とスピードを持っている。

 

もしかしたら、彼は自分が本気で走りたいということには、まだ気づいてないかもしれない。

 

でも、ぼくが「3月にこの駅伝大会出てみない?」と目標を差し出すと、

 

「え、走りたい。今日帰ったら走ってみようかな…」と目が本気になっていた。

 

 

 

そんな言葉を聞けて僕は嬉しかった。

 

そういう受け皿をつくって良かったという意味もあるけど、人が本気になる瞬間を見ることができて、本気で挑戦することに僕自身が一歩踏み入れて良かった。

 

素直に嬉しかった。

 

 

きのうマネージャーの子に近くの駅まで送ってもらった。

 

その車の中で「どんなチームにしたい?」と聞くと、

 

「成功することよりも、失敗してもみんなで熱くなれるチームにしたいです。」

 

と彼女は語ってくれた。

 

 

僕がやりたいことはきっとそんなことなんだ。

 

きっと、本気から言葉は生まれる。